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~大坂「天下の台所」を創った「菱垣廻船」~

江戸期約三百年もの長きにわたり、海上物流から我が国の経済を担っていた弁財型の大型帆船、その代表が菱垣廻船です。弁財型の船は日本の風土に適した高い性能を持ちながら、隠れた海洋国日本の宝です。現在、江戸期に建造された千石積級(積載量150t)の和船は残っておらず、今から18年前 1999年夏、江戸期の技法、工法を忠実に復元建造されたのが菱垣廻船「浪華丸」です。 この浪華丸は、船体の復元のみならず海上走行実験をおこない、科学的実証データを有している数少ない船です。この実証実験により、従来不可能であったとされていた風上への航行が可能であったことなど、それまでの定説を覆す結果を得ています。実験走行後、2000年に開業した大阪市立海洋博物館「なにわの海の時空館」館内に永久保存のため収められました。2013年、なにわの海の時空館閉館後も、南港の海に浮かぶガラスのドーム内に壮大な姿で収められているが、一般公開はされておらず残念ながら目にすることはできません。

~菱垣廻船とは~

徳川幕府が開かれ、江戸が大都市として発展してゆくにしたがって、さまざまな物資が必要となりました。大坂から江戸への物資輸送は急務となり海運業が発達しました。その航路で活躍したのが菱垣廻船です。1624年(寛永元年)、大坂北浜の泉屋平左衛門の江戸積の廻船問屋を開業、定期運航が始まります。それを皮切りに次々と廻船問屋が開業し、後の菱垣廻船問屋と発展します。菱垣廻船は大坂の二十四組問屋と江戸の十組問屋の共同運航的に運営されました。菱垣廻船のシステムは、物流、商品の品質、価格などの安定に寄与するもとして幕府の保護もありました。荷主の違う小口の生活必需品を一括して一隻の船で運ぶ方式は当時画期的なものでした。その積荷の主なものは九品(くじな)とよばれ、現代でも商品取引など経済の指針となる品々です。18 世紀に入り、菱垣廻船で運ばれていた兵庫産の酒や水油などを専門に運ぶ樽廻船が派生します。その後、明治維新により菱垣廻船の運営主体である株仲間(問屋組合)が解散。菱垣廻船の歴史は終焉を迎えます。明治政府は近代化の一環として、蒸気船など西洋型の船を推奨しますが、日本の近海航行に適し、ランニングコストもよい弁財型の和船は明治中頃まで建造され続け日本の海の主役でした。

浪 華 丸
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