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江戸幕府による鎖国政策は近世期の日本の造船や海運にも大きな影響を与えることになった。それまでは朱印船貿易に見られるように、海外との活発な交易が展開されたが、1635(寛永12年)に日本人の海外渡航が全面的に禁止されるに及んで、外洋航海用の船舶は一部の例外を除いて建造されることはなくなり、もっぱら一般に千石船と呼ばれる「弁才船(べざいせん)」など日本形の船舶が建造されるようになる。全国各地からの年貢米の輸送や、当時の経済の中心地大坂から江戸への大量の物資輸送の必要性も相俟って、沿岸航行用や河川専用の荷船が数多く建造され、海運が江戸期の経済を支える重要なインフラとなった。明治期に入り、政府による積極的な洋船技術の導入政策がとられ、西洋型帆船や蒸気船に海運の主役は移っていくが、近世における日本の船は、海外との接触が極めて少ない状況の中で独自の発展を見た。

幕藩体制が構築されると日本各地から年貢米を江戸、大坂への廻漕が必要となった。また、各地の建築、土木工事も盛んに行われ、大量の木材の輸送も必要となった。加えて政治の中心地となった江戸は、一大消費地となり、また瀬戸内をはじめ諸地方からの物資の集まる大坂は経済の中心地となり、大坂から江戸へ大量の物資を輸送する必要性が生じた。このような状況下で、生まれたのが菱垣廻船である。1619(元和 5 )年、大坂堺の一商人が、紀州冨田浦から250石の船を借り受けて、木綿、油、酒、酢、醤油などを江戸に運んだのが菱垣廻船の始まりと言われている。菱垣廻船は菱垣廻船問屋が差配し、江戸送りの荷物を集めて輸送するいわゆる運賃積の形態をとっていた。元禄時代には 1 年にのべ1200~1300隻が就航しておりその隆盛が伺われる。 菱垣廻船の重要な積荷の一つが酒荷であった。しかし、菱垣廻船は荷が揃うまでに時間がかかるので、下荷となる酒荷はとりわけ輸送に要する日数が長くなったこと、また暴風に遭遇したときに、刎荷(はねに)と呼んで輸送貨物を海中に捨てて難を逃れるが、酒荷は船底にあり刎荷の対象とならないのに共同海損の考え方で、賠償負担をさせられることなどが酒荷の荷主に大きな不満をもたらした。そこで1730(享保15)年、彼等は独自の廻船を仕立てた。これが樽廻船の始まりである。

弁才船が広く用いられるようになった理由は、弁才船がより帆走性能が良く、省力化が図れたからという説があるが、建造費の安さが主因という説もある。日本海側では近世初期から中期にかけて、北国船や羽賀瀬船などとよばれた船が活躍していたが17世紀末ころになると弁才船がこれに代わるようになった。そして日本海の交易の主役となった弁才船はその後、道南、北陸、山陰、瀬戸内、大坂を行き来する北前船として発展してゆく。

北海道の海産物、大坂の雑貨類、各寄港地の特産品等を仕入れ、いわゆる買積船として収益をあげた。時代が下るに従って、船首尾がそり上り、ずんぐりした船型になって、耐航性能を向上させ、大量の荷物が詰めるような船型に変化していった。 江戸時代の主な商船としては、この他にも瀬戸内の塩等を運んだ塩廻船、オランダや中国から長崎にもたらされた繊維製品を上方に輸送する糸荷廻船、地域的には紀州廻船、尾州廻船、陸奥の奥筋廻船などと呼ばれた廻船があったが、いずれも船の形式としては弁才船であった。

外国の造船技術の流入が途絶えたとはいえ、江戸時代の経済のインフラを支えた内航海運の主力船の形式が全国でほぼ共通であったことは注目すべき点と思われる。

参考文献:近代期における日本の船の地域的特徴

https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5976/1/2-3_KOJIMA%20Ryoichi.pdf

弁才船について  

1811(文化 8 )年の万徳丸の絵馬 (粟崎八幡神社蔵

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